うっちー徒然
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
こんばんは。逢坂です。
もうめっきり秋だというのに、相変わらず太陽だけが
ギラギラしている気がします。
(いよいよオゾン層が…)というイヤな考えを振り切って
次のお仕事のネームにとりかかっております。
ところで、先日、「いまちょっと困っている」知人と
電話をした旨をここにUPしましたが、
一日おいて、また別の友人と長電話をしてしまいました。
その際、知人が「そう言えばこの間ね…」と
再びまた「ちょっと困っている」的な顛末を
切り出されてしまい、内心うひゃあと思いました;
前例をふまえて、ヘタなツッコミを控えつつ
一部始終を聞き終わり、
「うう…それは大変でしたね」と共感を全面に押し出して
傾聴に努めてみました、ら。
「ああでも、困ったかも、と胸の中でもやもやしてたことを
今こうして改めて言語化してみると、よけいこたえますねえ」と
知人が言うものですから、
そこでも自分はまたあううううう;と頭をかかえてしまいました。
なぜならば。前日の「困った知人1さん」に対して
自分は、「なにをどう困っているのか」
具体的な言葉にして(言語化して)みて下さい、と
しつこく迫ってしまったからです;
抽象的な(心理的な)もやもやを言語化すれば、問題点がクリアになって
解決策に近づけるのではないか、とか
実に浅慮だったんですね…;
というかわたくし;場の空気を読むのが少々(?)苦手なせいか、
「抽象的なことばや概念」に非常に疎いところがありまして。
「具体的にそれはどういうことなの?」と相手に
問い返すことがしばしば…どころの騒ぎでもなく
最近とみに、その傾向が強くなっています。
けれど、抽象を言語化する、「具体的な言葉」にする、ということは、
問題点がよりクリアになる、という利点(?)の一方、
問題点がより強度を増して突き刺さる、という側面も併せ持っているのですね。
なぜなら、「言葉」というのは、その中に
様々なイメージをあらかじめ内包してしまっていて、
そのイメージごと本人を飲み込んでしまうような性質があるからです。
上記の例として。
なんとなく物足りなくてしかたないような時。
「あ、自分、淋しいのかな…」とか、「淋しい」という言葉が
思い浮かんだとします。
そうすると、「淋しい」という言葉が含んでいるイメージ、
「孤独」「ひとりぼっち」「つらい」「疎外感」…等々、が
「淋しい」というたった一つの単語と言うか弾丸が、
散弾銃のよーに唱えた本人をハチの巣にする…とか。
そういう意味では、言葉って便利ですが、
同時にまた、非常に怖いツールでもあるなあ、と思うのです。
けれど自分は、その「困ってる知人2」さんにも言いましたが、
「言葉って、あくまでも言語ゲームのツールであって、
表現上のひとつのルールとか、仮の取り決め、という程度のものですよ。
その単語は心理の一端を確かに表現してるかも知れませんが、
実のところ、感情は言葉つねにをはみ出しているはずです。
なぜならた、感情の全てをたったひとつの言葉で
表現しきれるわけがないじゃないですか」…とか
気がつけば、ヴィトゲンシュタイン先生や丸山圭三郎先生から
もろパクリ、みたいなことを口走っておりました。
(そして、何の慰めにもなっておりません;あううううう(>_<)
奇しくも「蜻蛉」コミックスの書き下ろしで
「言霊(ことだま」という短編を発表した折りでもありますが、
「言霊=言葉の呪術的作用」とは、上記に書いた
「内包するイメージ弾丸」のことでもあります。
けれどイメージは、あくまでもイメージであって、
真実や事実そのものではないはずです。
けれど言葉は、ツールとしてはとても便利なものですから
しばしばそれに安住し、気がつけばそれに自分の心や方向性までも
絡め取られてしまってる、とか…
そんな経験ありませんか?
私もわりと言葉には、ひと一倍のこだわりを持つ方ですが、
同時に言葉の性質や限界、ということにも、
人一倍の警戒や危惧を抱いているつもりでもいます。
言葉を使ったコミュニケーションは、実のところ
●分かるようで、わからない。
●分かったつもりで、実は全然分かれていない。
●もしくは逆に、全然分かんねーや;とギブアップして
しまうようなことでも、心的にはしっかり理解しちゃってる、
…というような現象が不断に起こる、
とても面白い(?)万華鏡ワールドだと思うのです。
でも。「分からない」ということも含めて
「コミュニケーション」なのだと思うのです。
(村上龍先生は、「分からない」という地点を明確にしてこそ
コミュニケーションが始まる、とおっしゃっていたような)
言葉は万能でもないし、
「分からない」ままでも全然いいのだと思います。
知りたい、と思ったらしつこく問いかければいいのだし、
「分かったこと=相手の真意や内容」も、
表現上のひとつの仮説と言うことで、
別の仮説を組み立ててゆく楽しみもまた、あるのだし。
…あいかわらず、いったいナニが言いたいのだ;という
エントリばかりをUPしていますが、
上記にずらずら並べました言葉や単語を組み合わせて
皆様のお好きな仮説を組み立てて頂けましたら幸いです。
ではでは、また来日(^^)/~~~
もうめっきり秋だというのに、相変わらず太陽だけが
ギラギラしている気がします。
(いよいよオゾン層が…)というイヤな考えを振り切って
次のお仕事のネームにとりかかっております。
ところで、先日、「いまちょっと困っている」知人と
電話をした旨をここにUPしましたが、
一日おいて、また別の友人と長電話をしてしまいました。
その際、知人が「そう言えばこの間ね…」と
再びまた「ちょっと困っている」的な顛末を
切り出されてしまい、内心うひゃあと思いました;
前例をふまえて、ヘタなツッコミを控えつつ
一部始終を聞き終わり、
「うう…それは大変でしたね」と共感を全面に押し出して
傾聴に努めてみました、ら。
「ああでも、困ったかも、と胸の中でもやもやしてたことを
今こうして改めて言語化してみると、よけいこたえますねえ」と
知人が言うものですから、
そこでも自分はまたあううううう;と頭をかかえてしまいました。
なぜならば。前日の「困った知人1さん」に対して
自分は、「なにをどう困っているのか」
具体的な言葉にして(言語化して)みて下さい、と
しつこく迫ってしまったからです;
抽象的な(心理的な)もやもやを言語化すれば、問題点がクリアになって
解決策に近づけるのではないか、とか
実に浅慮だったんですね…;
というかわたくし;場の空気を読むのが少々(?)苦手なせいか、
「抽象的なことばや概念」に非常に疎いところがありまして。
「具体的にそれはどういうことなの?」と相手に
問い返すことがしばしば…どころの騒ぎでもなく
最近とみに、その傾向が強くなっています。
けれど、抽象を言語化する、「具体的な言葉」にする、ということは、
問題点がよりクリアになる、という利点(?)の一方、
問題点がより強度を増して突き刺さる、という側面も併せ持っているのですね。
なぜなら、「言葉」というのは、その中に
様々なイメージをあらかじめ内包してしまっていて、
そのイメージごと本人を飲み込んでしまうような性質があるからです。
上記の例として。
なんとなく物足りなくてしかたないような時。
「あ、自分、淋しいのかな…」とか、「淋しい」という言葉が
思い浮かんだとします。
そうすると、「淋しい」という言葉が含んでいるイメージ、
「孤独」「ひとりぼっち」「つらい」「疎外感」…等々、が
「淋しい」というたった一つの単語と言うか弾丸が、
散弾銃のよーに唱えた本人をハチの巣にする…とか。
そういう意味では、言葉って便利ですが、
同時にまた、非常に怖いツールでもあるなあ、と思うのです。
けれど自分は、その「困ってる知人2」さんにも言いましたが、
「言葉って、あくまでも言語ゲームのツールであって、
表現上のひとつのルールとか、仮の取り決め、という程度のものですよ。
その単語は心理の一端を確かに表現してるかも知れませんが、
実のところ、感情は言葉つねにをはみ出しているはずです。
なぜならた、感情の全てをたったひとつの言葉で
表現しきれるわけがないじゃないですか」…とか
気がつけば、ヴィトゲンシュタイン先生や丸山圭三郎先生から
もろパクリ、みたいなことを口走っておりました。
(そして、何の慰めにもなっておりません;あううううう(>_<)
奇しくも「蜻蛉」コミックスの書き下ろしで
「言霊(ことだま」という短編を発表した折りでもありますが、
「言霊=言葉の呪術的作用」とは、上記に書いた
「内包するイメージ弾丸」のことでもあります。
けれどイメージは、あくまでもイメージであって、
真実や事実そのものではないはずです。
けれど言葉は、ツールとしてはとても便利なものですから
しばしばそれに安住し、気がつけばそれに自分の心や方向性までも
絡め取られてしまってる、とか…
そんな経験ありませんか?
私もわりと言葉には、ひと一倍のこだわりを持つ方ですが、
同時に言葉の性質や限界、ということにも、
人一倍の警戒や危惧を抱いているつもりでもいます。
言葉を使ったコミュニケーションは、実のところ
●分かるようで、わからない。
●分かったつもりで、実は全然分かれていない。
●もしくは逆に、全然分かんねーや;とギブアップして
しまうようなことでも、心的にはしっかり理解しちゃってる、
…というような現象が不断に起こる、
とても面白い(?)万華鏡ワールドだと思うのです。
でも。「分からない」ということも含めて
「コミュニケーション」なのだと思うのです。
(村上龍先生は、「分からない」という地点を明確にしてこそ
コミュニケーションが始まる、とおっしゃっていたような)
言葉は万能でもないし、
「分からない」ままでも全然いいのだと思います。
知りたい、と思ったらしつこく問いかければいいのだし、
「分かったこと=相手の真意や内容」も、
表現上のひとつの仮説と言うことで、
別の仮説を組み立ててゆく楽しみもまた、あるのだし。
…あいかわらず、いったいナニが言いたいのだ;という
エントリばかりをUPしていますが、
上記にずらずら並べました言葉や単語を組み合わせて
皆様のお好きな仮説を組み立てて頂けましたら幸いです。
ではでは、また来日(^^)/~~~
PR
この記事にコメントする
アーカイブ
カレンダー
最新トラックバック
プロフィール
HN:
逢坂みや
HP:
性別:
非公開
職業:
マンガ描き
自己紹介:
BL・レディース誌でお仕事中。
最近はもう「何でも描きます屋」となりつつあるも、「何を書いても腐女子」スメル漂い中。
最近はもう「何でも描きます屋」となりつつあるも、「何を書いても腐女子」スメル漂い中。
ブログ内検索
リンク