忍者ブログ
うっちー徒然
[8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

こんばんは。逢坂です。
昨日は「買ったもの」物の話をUPしましたので
もうひとつ、最近の買い物で
非常に印象深かった(?)小咄をひとつ。

「思い立って酒へ」と同様に、
時々自分は、気分転換に、用もないのに
近所のホームセンターやコンビニやスーパーを徘徊したりします。
それはホントにひやかしというか、
新しいチョコが出たんだなーとか、
今はこういう雑草用のカマが売れてるのかなーとか
マーケティングリサーチ?しながら
店内をぶらついては手ぶらブラブラ帰宅するのが常なのです。

…なのですが。
先日、いつもの様にスーパーに行きましたら
売り出し台に、チ●ンラーメンのプリントのある
やや大きめの箱がででんと積んでありました。
「なんやろ?」と手にとってみますと、
マスコットの【黄色いヒヨコ】がプリントされた
蓋つきの丼がついてるセールス商品だったのです。

(蓋つき、というところがいかにも●キンラーメンです)

…で。
わたくし、以前こちらに、非常に失礼ながら
カップ麺のワルクチを書いたこともありまして。
それ以前に、インスタントラーメン類が全体的に苦手というか、
ソレ系の元祖たるチ●ンラーメンに至っては
これまた鬼門のお醤油味、ということもあり
ここ十数年くらい、まず「買わないモノリスト」の
筆頭に輝いていたくらいなのですね。

…なのに。
「黄色いヒヨコ」の愛らしさをどうしてもワガモノにしたくなり、
気がつけば丼セットの箱を抱えてレジに立っておりました…。
まあ丼自体はかなりしっかりした作りでしたので
セットで買っても損はないかなー、と今でも思っていますが、
いやでも;「丼モノ」じたいもあまり食べないし、
似たような丼がもしも要るのなら
100円ショップででも買えてしまうのに違いないし;
なによりも、おまけ?で付いてた需要のないラーメン本体の方は、
おそらく半永久的に台所の棚に置かれっぱなしとなりますでしょう…。


てな話しを、これまた先日、たまたま妹と雑談した際に
出しましたら、
「あるある!あたしも前に、ひよこのプリントが
 可愛くていかわいくて、全然要らないのに
【土鍋つき】のセールス商品、つい買っちゃった覚えある!」と
共感しいしい語ってもくれました。
そして姉妹で口々に
「アレはいけないキャラだよね~」
「うんうん、黄色い悪魔だよね~」と笑い合ってしまいました。

おそるべし、エロー・デビル。
(そういえばアメリカ産の黄色いヒヨコキャラもいたなあ;)
あと。サンリ●商品だと、白と水色のシ●モンちゃんにも
非常に弱い自分ですが、それでもついつい
キャラにつられて財布の紐が、てな経験は
多分上記の、●キンラーメンの件だけではと思います。

何というか、生活とか性格とか行動様式全般について、
自分は「機能重視」な面が相当に強いのです。
でも、そのガードのスキをついて、黄色い悪魔が忍び寄る…(^^;)
まあ、昨日のワイン同様、
たまにはそんなムダ使いも潤いかな、と思いつつ。


ではでは、また来日(^^)/~~~


PR
こんばんは。逢坂です。
相変わらず仕事ばかりの毎日を過ごしております。
冬コミ準備前に何としてもホームズの原稿と、
他ネーム一本を完成させないといけないので
毎日が時間とのチキンレース!


…の割りには毎晩飲んだくれてたりもしています;
(てか休肝日って要るよねー;せめてその、月イチくらいは…)
で、BBSには「ビール党」だとも書きましたが、
さすがにこの時期、冷えたビールはややきついせいか
先日、なぜか衝動的に、
専門店でワインを一本買って参りました。

ワインと言えば、ヌーボー大売り出しの時期でもあるのですが
時流には乗れない;銘柄にも興味のない自分ですので、
とにかく「リーズナブルで、白で辛口」とだけ
頭に入れて、ものすごい数の種類の中から
『LINA DI LUNA』(月の月?)という
イタリアワインを選びました。
チョイスの決め手は、酒屋さんのおすすめPOPと
青い瓶に銀色のラベルのみの、とても綺麗でシンプルな外見です。

…で、買ってから一週間以上経つのですが、
実はまだ開封しておりません。
もうじき誕生日なので、その日に空けようかなとか
いやいややはりクリスマスに、腰が抜けるまでやろうかな;とか…。

いろいろ考えてはいるのですが。
「外見惚れ」してるせいか、なんとなく
もったいなくて空けにくいのです。
酒はもちろん、呑んでなんぼ、お料理は食べてなんぼ、ですので
飾って眺めているだけでは
せっかく買ったワインが可哀想、でもあるのでしょうが。

それでも。なんとなく、そうっとしておきたくて
秋の夜空の寒月にお供え(?)とかしてみております。
そういえば古語では、11月のことを「霜月」と
呼んだのでしたっけ。
旧暦と新暦の差はあるにせよ、
霜、というにはまだまだ生ぬるい気候でもありますが。

やはりもっと、このワインは、キンキンに寒い夜に、
カンカンに冷やしておいて
外で呑むのが良いのではないかしら、と
青くて綺麗な瓶を前にしてドMな妄想を展開しております。



本日はネタに困り;飲み助のんべぇのタワゴトを並べてみました;
とりあえず今夜の寝酒もビールっつーか発泡酒やん;ということで。


ではでは、また来日(^^)/~~~









こんにちは。お久となっておりました逢坂です。
こちらは相変わらず、プロット打ったりネーム切った酒呑んだりゲームしたり、
いよいよ始まった「秋の脱毛」(…。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。)に波●さんと化して恐々としたりしつつ日々を過ごしておりました。
(やっぱり今年も抜けるのか…てか自分は犬か!猫かよ!?)

ところで数日前から、ここに書こうかどうしようかと思ってました
「いじめ問題」
最近世間で話題だそうですね。
かつて、小学生だった頃の私も「られる側」の当事者でしたので心中穏やかではありません。
それと先日、友人と電話で話していたおり、
「やはり人間って、教育しないで放っておくと、差別やいじめで他者を攻撃してしまうものだから…」という話題も登りましたし、
加えてまた違う知人から奨められました
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」という映画を観て
考え込んでしまったこともありますし…。

映画そのものはたいそう面白かったのですが、
映画を撮ったクローネンバーグ監督は、エロスと暴力を
同種・同類と観ている 気がしてしかたなかったです。
んでその方向性というか感覚は、間違ってないのね。
以前読んだ本にも、「セックスとバイオレンスは人間の二大エンタテイメントだ」と言い切った識者さんもいましたし、
「られる側」、つまり虐め暴力の被害者だった私にも
共感というか、かなり納得できる説でもあるのです。

(それでも少々、疲れている時に
 気分を変えようとレンタル店に行って、
 並んでいる映画やドラマが、殺人か暴力、もしくは恋愛がらみばっかりなので
 うんざりすることも多々あったりはします)

まあ、エロスについてははまた後日、ということで、
今回はいじめ(暴力)にのみ焦点を絞りまして。
そして、「られる側」苦痛や問題も、いったんは置きまして。
(られてる子たち人たち、ごめんなさいね。
 ヲイラも経験者だから、気持ちはホントに分かるですよ。
 でもね、それについては
 「それから学べ」としか言いようがないのよ;)

さて、よくない、とされていながらも、
なぜいじめは止まらないのか。
それはやっぱり「快楽だから」…なんでしょうね。
心理的な面でもそうでしょうし、それに加えて
生物(動物)は生物のの掟として
「生き延びるための攻撃本能」と「種としての淘汰の本能」という
二大本能があるのだと思います。
つまり「異種の排除」とか「弱いと思われるものは排除」とか
そういうものが遺伝子に組み込まれているのではないか、と
私個人は思っていたりするのです。

(だから別に、いじめに限らず、ひとは強弱とか勝ち負けに拘るでしょ?)

だからと言って、人がヒトたる、いや社会性を帯びた共同体の一員として
本能のままに「仁義なきいじめ」に走っていい訳じゃないです。
こういう問題が起きるたびに、私は「いじめる側」のひとに
「気持ちや意見」を訊きたい気がしてならなくなります。

いじめのターゲットは、たいていは大人しい子かと思います。
放っておいても自分に害はないでしょうに、
なのになぜ「あえて、能動的に」いじめ、という行動に出るのか。
何らかの事情で快楽量が不足しているのか、
勝者の万能感、がクセになってしまっているのか。
あるいは、仲間同士の連帯のためには
「仮想敵」というのが不可欠であるのかどうか…、とか。

…とは言え、本人らに訊いても多分、確たる理由なんて
言いようがないでしょうし、実際無かったりするのでしょうね。

しかし、これこそが人のヒトたる、人間特有の快楽でしょうが、
「快楽を規制してルールを定め、それに添う」という種の
「自己抑制・自己管理をする快楽」もあるのです。
(で、規制・禁忌を破るのもまた快楽…と^^;)
とは言え、万人がそれが可能で向いている、というのも違うでしょうし、
そっちが苦手な子たちや人たちが
「破る快楽」に向かうのかなあ、などとも思ったりします。

いずれにせよ、ちょっと言葉がアレですが、
「いじめ」や暴力は、人にとっての持病というか、クセのような
ものなので、一概に「ダメ・ゼッタイ」と唱えるよりも、
「それとどうつきあってゆくか」が
なんと言うか…知恵の使いどころ見せどころ、という気がします。
(だから、「学ぼうよ」としか私には言いようがないのです)

…と。一方的に、しかもまた思いつきっぽく書いてはみましたが。
これについて皆さんはどう思いますか?
よろしければご意見など、これのコメント欄にでも、
あるいはBBSででもお聞かせ頂けましたら幸いです。

さて。長くなりましたのでこの辺で、私はひとまず仕事に戻ります。
そうそう、お仕事と言えば。
来年発売の某誌で巻頭に割り振って頂きましたのと、
昨今話題沸騰の携帯配信がらみで、あおば出版コミックスの
「LOOZ」も配信される模様です、とご報告しておきます。
(…韓国語版はどうなったのかな…^^;)
そだそだ、外国語と言えば。
カーイさまのご協力とヤ●マト運輸の事業拡張(国際メール便)の
おかげを持ちまして、旧東ドイツのお嬢さんに
やっとお礼のお便りを出せました♪
ちなみに、国際メール便は始まったばかりで、
私が初の、愛知からの海外発送者、だったのだそうです。
諸関係者の方々、ご配慮誠にありがとうございました。



ではでは、また来日(^^)/~~~














こんばんは。逢坂です。
もうめっきり秋だというのに、相変わらず太陽だけが
ギラギラしている気がします。
(いよいよオゾン層が…)というイヤな考えを振り切って
次のお仕事のネームにとりかかっております。

ところで、先日、「いまちょっと困っている」知人と
電話をした旨をここにUPしましたが、
一日おいて、また別の友人と長電話をしてしまいました。
その際、知人が「そう言えばこの間ね…」と
再びまた「ちょっと困っている」的な顛末を
切り出されてしまい、内心うひゃあと思いました;

前例をふまえて、ヘタなツッコミを控えつつ
一部始終を聞き終わり、
「うう…それは大変でしたね」と共感を全面に押し出して
傾聴に努めてみました、ら。

「ああでも、困ったかも、と胸の中でもやもやしてたことを
 今こうして改めて言語化してみると、よけいこたえますねえ」と
知人が言うものですから、
そこでも自分はまたあううううう;と頭をかかえてしまいました。

なぜならば。前日の「困った知人1さん」に対して
自分は、「なにをどう困っているのか」
具体的な言葉にして(言語化して)みて下さい、と
しつこく迫ってしまったからです;
抽象的な(心理的な)もやもやを言語化すれば、問題点がクリアになって
解決策に近づけるのではないか、とか
実に浅慮だったんですね…;

というかわたくし;場の空気を読むのが少々(?)苦手なせいか、
「抽象的なことばや概念」に非常に疎いところがありまして。
「具体的にそれはどういうことなの?」と相手に
問い返すことがしばしば…どころの騒ぎでもなく
最近とみに、その傾向が強くなっています。

けれど、抽象を言語化する、「具体的な言葉」にする、ということは、
問題点がよりクリアになる、という利点(?)の一方、
問題点がより強度を増して突き刺さる、という側面も併せ持っているのですね。
なぜなら、「言葉」というのは、その中に
様々なイメージをあらかじめ内包してしまっていて、
そのイメージごと本人を飲み込んでしまうような性質があるからです。

上記の例として。
なんとなく物足りなくてしかたないような時。
「あ、自分、淋しいのかな…」とか、「淋しい」という言葉が
思い浮かんだとします。
そうすると、「淋しい」という言葉が含んでいるイメージ、
「孤独」「ひとりぼっち」「つらい」「疎外感」…等々、が
「淋しい」というたった一つの単語と言うか弾丸が、
散弾銃のよーに唱えた本人をハチの巣にする…とか。

そういう意味では、言葉って便利ですが、
同時にまた、非常に怖いツールでもあるなあ、と思うのです。
けれど自分は、その「困ってる知人2」さんにも言いましたが、
「言葉って、あくまでも言語ゲームのツールであって、
 表現上のひとつのルールとか、仮の取り決め、という程度のものですよ。
 その単語は心理の一端を確かに表現してるかも知れませんが、
 実のところ、感情は言葉つねにをはみ出しているはずです。
 なぜならた、感情の全てをたったひとつの言葉で
 表現しきれるわけがないじゃないですか」…とか
気がつけば、ヴィトゲンシュタイン先生や丸山圭三郎先生から
もろパクリ、みたいなことを口走っておりました。
(そして、何の慰めにもなっておりません;あううううう(>_<)

奇しくも「蜻蛉」コミックスの書き下ろしで
「言霊(ことだま」という短編を発表した折りでもありますが、
「言霊=言葉の呪術的作用」とは、上記に書いた
「内包するイメージ弾丸」のことでもあります。
けれどイメージは、あくまでもイメージであって、
真実や事実そのものではないはずです。
けれど言葉は、ツールとしてはとても便利なものですから
しばしばそれに安住し、気がつけばそれに自分の心や方向性までも
絡め取られてしまってる、とか…
そんな経験ありませんか?

私もわりと言葉には、ひと一倍のこだわりを持つ方ですが、
同時に言葉の性質や限界、ということにも、
人一倍の警戒や危惧を抱いているつもりでもいます。
言葉を使ったコミュニケーションは、実のところ
●分かるようで、わからない。
●分かったつもりで、実は全然分かれていない。
●もしくは逆に、全然分かんねーや;とギブアップして
しまうようなことでも、心的にはしっかり理解しちゃってる、
…というような現象が不断に起こる、
とても面白い(?)万華鏡ワールドだと思うのです。

でも。「分からない」ということも含めて
「コミュニケーション」なのだと思うのです。
(村上龍先生は、「分からない」という地点を明確にしてこそ
 コミュニケーションが始まる、とおっしゃっていたような)
言葉は万能でもないし、
「分からない」ままでも全然いいのだと思います。
知りたい、と思ったらしつこく問いかければいいのだし、
「分かったこと=相手の真意や内容」も、
表現上のひとつの仮説と言うことで、
別の仮説を組み立ててゆく楽しみもまた、あるのだし。

…あいかわらず、いったいナニが言いたいのだ;という
エントリばかりをUPしていますが、
上記にずらずら並べました言葉や単語を組み合わせて
皆様のお好きな仮説を組み立てて頂けましたら幸いです。


ではでは、また来日(^^)/~~~
こんばんは。逢坂です。
映画を見て本を読んでゲームやって;、と
この所少々遊びすぎたせいか、控えている年内のお仕事に
ちょっと汲々しております(-_-;)

それはそうと、昨日、コミックスを送った知人から
お礼のFAXを頂きました。
知人の、ちょっと困っている様子が心配になりましたので、
失礼ながら長電話などさせて頂きました。

そしていろいろ;思い返せば偉そうなことばかり
口走ってしまっていて(>_<)
最近、他の知人ともこの手の話しになったのですが、
困っている相手の訴えに対して
「こうすればいい」とつい解決策を提示してしまうのは
世の男性がたに顕著に見られる言動というか思考様式なのだそうで;
とは言え別に男性に限ったことでもなく、
女性でも、年輩の方などにはよく見られる現象です。


なのですが、困っている相手が相談相手に欲しているのは
たいていの場合はただひとこと「大変ですね」という言葉と共に
共感といたわりを欲している場合が多いのだとか。
解決策や正論なんて、困っている本人には
とうに判ってもいることなのです。
ですが解決策提示型びとは、つい困っているひとの上に立って
「指導する」スタンスに立ってしまうようです…なんて書くと
昨夜の自分の言動にいよいよ自己嫌悪が募ります;

そいういうのって、自分としては、
やはり恥ずかしいことなんだなあ;と感じています。
空気の読めない私のつまらない見栄と思い上がりが、
表面上は朗らかに応対してくれていた
知人をより傷つけてはいないかと、今は案ずるばかりです;
M様ほんとにごめんなさい<(_ _;)>

それにしても、そういう場面で、
自分がいかに知見があり有能であるか…とか
自己開示したくなる欲求ってなんなんだろう;
日頃の負け犬心とか、コンプレックスの反動なのかなあ…?などと
反省と自省しいしい。

(とは言え、私はともかく、「解決策提示型」の応答も
 決して悪いばかりの形態ではないと思ってもいます。
 抽象的な感情に対して、機能的な言葉で(理性)応対する、というのも 
 それはそれで有用なコミュニケーションではないでしょうか)

 
ではでは、また(>_<)/







コミックス・蜻蛉と風守

先日、予定の売り出し日より少し早くに、10月の新刊コミックス
「蜻蛉と風守(とんぼとかざもり)」の見本誌が届きました。
見本誌だから早いのかな?と思ってたらAmazonでも商ってるらしいので
書店での目印用に帯付きをMENUページに、
帯なしの本体カバーをこちらみUPしてみました('-'*)エヘ

それにしても、コミックスを出して頂くたびに思うのですが、
カバーデザインをして下さるデザイナー様がたって偉大ですね!
レイアウトやロゴデザイン、カラーリングの妙で、
ヲイラのヘタレ絵が二割り増しキレイに見えるですーヾ(〃^∇^)ノ
その方々も含めて、世紀の珍事たる「逢坂・コミックス祭り」に
ご協力頂きました諸関係様がた、誠にありがとうございましたっ!
この本をラストに、おかげさまで珍事つつがなく終了し、
出がらしとなった逢坂は、祭りの疲れを癒しつつ、当分はまったりと…………

…いや。当初の予定では、「癒し・まったり」と
過ごすハズだったのですが。
どういう訳か来年の春にも、新刊を一冊出して頂けるらしく(;^_^A
そのことじたいは、毎度ありがたいコトこの上ないですし、
決してけっしてぜーたくを言える身分ではないのですが
正直「うわああ;まだ続くのかー!」と心中叫んでしまいました。
(こゆことゆってると↑今にバチが当たるのだ;)

とは言え。これも読者様関係者さまのご温情あってのことですし、
地方によっては、番茶や緑茶の出がらしでも佃煮にして
食されてしまうところもあるそうですし!

よれよれ出がらし逢坂も、何とかあと一踏ん張りして、
せめてお茶請けにして頂けるよーな佃煮になりますです!


そんな訳で。新刊ともども、またよろしくお願いいたします<(_ _)>



ではでは、また来日(^^)/~~~
こんにちは。逢坂です。
今日はしのつく雨天でして、つい家に引きこもってしまって
久々にRSSでネット徘徊してましたら、面白い記事に当たりました。

◎正しい女の子のほめ方

記事対象は男性管理職っぽい、という点を抜きにしても
なかなか納得がゆく内容でした。
で、それとは別に、「誉める」「誉められる」ということについて
以前から少々、思っていたことなど。

懐かしい、そしてちょっとアレな言葉ですが、
「豚もおだてりゃ木に登る」てのがありますよね。
私はそれってなかなか金言だと思いますし、
イマドキの子供には「誉めて育てろ」というのが原則なのだそうですが
肝心の「育てる側」(30代~40代くらいの世代)には
ちょっと難しい注文なのだろうな、と思うことがしばしばあります。

だって、育てる側の世代って、誉められて育てられた訳じゃないから。
むしろその頃の社会はまだ「やれて当たり前」だと見なす傾向が
大半だったでしょうから、そいういう視線に晒されて
鍛えられて来たひとたちが、今の親となり、教師となり、
指導者となって来たのだと思うのです。

先日、ある知人と話してた際、内容が家族のことになり
「うちの母親は、私が学年トップの成績を取ってきても絶対に誉めないひとだった」と知人が言うので、
「いや実はウチの親もその傾向が」と苦笑いしながら私も同意。
なんか私の知人って、そういう人が多いんですよね。
そしてどの知人も、そのほとんどが女性ですが、
頭がよくて聡明な「できる人」だったりしてます。
そして多分、親や周囲に「できて当たり前=できても別に誉められなかった」
人たちであるような気がします。

(ちなみに知人のご母堂がなぜ誉めなかったか、というと
「誉めるとこの子は増長する」と警戒していたのだとか)

だから(多少偏見が入りますが)
その親御さんも、高度経済成長期の日本、という背景も含めて「できる人」
もしくはうちの母親みたく、生活が決して楽ではなかったから
「やらざるを得なかったひと(そしてできてしまった人)」
なのだろうと思います。
で、「できる人」から見ると
(多分、そのお子さん等も含めて)
「(まだ)できない人」に対しての視線って結構厳しかったりするんです。
本人のレベルが「できて当たり前」のラインにあるので、
「できない人」は怠けてるとか甘えてるとか、
できないならできるようになるまで努力するべきだ、とか。

自分も以前はそのように考える人間でしたが、
これもある知人から、
「いや、【できる】ということも、【努力】というのも
 ある種の才能の範疇のことで、世の中には、
 ほんとうにできない人、努力する才能もないひと、というのも
 存在してるんだよ」
と聞かされて、ちょっと目からウロコが落ちたと言いますか。


考えてみれば、世の中のシステムじたいが
「できる人」が自分や自分の周囲基準でつくり上げた、
「できる、ということが前提のシステム」な点が多々あって、
もちろん今時としては、、マイノリティの方々が
抗議や参画の声を上げいることもあり、以前ほど硬直してはいない…はずですが。
本音のところは、そうじゃないよね。
というのも、声を上げるひとも含めて
世の中の大半が、やはり「できるひと」でしょうから。
(声をあげられる、意見が言える、というのも十分「できる」範囲のことです)


でも。「できるひと」だっていつもできる訳じゃない。
失敗したり失業したり病気になったり、と当人を巡る状況はいろいろ変わります。
そういう時に、周囲や社会が相変わらず「できて当たり前」だと見なしてたり
本人も「私はできるはず」だと思いこんで無理とかしたら
間違いなくよい結果は生まれないと思うしな。
そういう「できて当たり前=できるのが普通=できても誉められない連鎖」
ってゆうのは案外と呪いのよーに(^^;)
続いてゆくものじゃないのかな。
よく俗説に、「愛されなければ、愛せない」とか言いますが、
その俗説が真だと仮定すると、
「誉められなければ、誉めることができない」という
連鎖にも繋がると思いますし。

(ウチの親なんか結構その典型ですのですごく真実味があります)


もちろん自分は、なんでもかんでも「誉めろ」といってるわけでもないし
(「なんでもかんでも誉めてー!」と言いたいわけでも…ちょっとはあるけど;)
できないひとならできないなりに、その人なりの「負荷」は
その人の成長において絶対に必要だと思っています。
(やっぱり、1しかできなかったものが2できるようになる、というのは
 嬉しいことですしね)
けれど。「できる人」にちょっとだけ意識して欲しいんですよね。
できる人は、自分以外の他者に対しても「できるはずだ」と
無意識に期待してる、ということ。
そして他者が、期待に反してできなかったりした場合、
なぜか裏切られた気持ちになって
むやみに怒ったり落胆したりしてしまう…
言葉はとても悪いのですが、「その勝手さ」的な要素のことを。

そういうのって、他者は辛いし、自分も疲れるじゃないですか。
むしろ基本的には、誉めたり誉められたり、という連鎖の方が
楽しいと思うし、物事も人生も、楽しくなければ
発展もしないし続けられないのでは、と思ったりもするのです。


…なんか今日は説教臭いというか;
もしくは「できない逢坂」の言い訳めいた言動ですいませんです;
それにしても、上記の記事を読んで、
「誉められない」ということについては、女性よりも男性の方が
きつい現状にあるのかな?とも思います。
ヘテロの男同士って、何というか…コレは私の勝手な思いこみですが、
どうも生物学的(本能的?)に
「メスを巡る闘争相手」という立ち位置にあるので、
誉めたり誉められたり、という関係性からは本能的に遠い気がするんです。
(同性を倒してメスをゲットしないと自分の遺伝子が残せないわけですし)

だから、男性って、女性に誉められるより、同性に誉められて認められた方が
多分数倍、嬉しいものなんじゃないかな…と
いよいよ考えがまとまらなくなって来ましたので
本日のタワゴトはこの辺で。



ではでは、また(^^)/~~~

カレンダー
04 2024/05 06
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新トラックバック
プロフィール
HN:
逢坂みや
性別:
非公開
職業:
マンガ描き
自己紹介:
BL・レディース誌でお仕事中。
最近はもう「何でも描きます屋」となりつつあるも、「何を書いても腐女子」スメル漂い中。
QRコード
ブログ内検索
リンク
最古記事
忍者ブログ [PR]